1.イエスを求める二人の盲人
・イエスと弟子たちがエリコの町を出られる時、二人の盲人がイエスにいやしを求めた。
―マタイ20:29-30「 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。」
・人々は盲人を黙らせようとしたが、盲人たちは叫び続けた。
―マタイ20:31「 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。」
・イエスは彼らに言われた「私に何をしてほしいのか」。彼らは目をいやしてほしいと願った。
―マタイ20:32-33「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。」
・イエスは彼らを深く憐れんで、彼らの目をいやされた。
―マタイ 20:34「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」
2.イエスを求めること
・弟子たちもイエスを求めたが、それは自分たちの栄光のためであった。イエスは答えられなかった。
―マタイ20:21「イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
・しかし、イエスを信じ、憐れみを求める声にはイエスは答えられる。イエスが来られたのは、人々を憐れむためであったからだ。本当に必要なものは与えられる。
―ルカ4:18-19「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
3.バルティマイは十字架の証人となった。
・この盲人の名はマルコによればバルティマイである。
―マルコ10:46「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」
・バルティマイの信仰をイエスは誉められた。群集が妨げようが、何度もイエスの名を求め続けたからである。そしていやされたバルティマイはイエスに従ってエルサレムに行った。
―マルコ10:52「イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」
・エルサレムでバルティマイはイエスの十字架を見える目で見た。そしてイエスの復活を見える目で見た。バルティマイはイエスの十字架と復活の証人になるために、見えるようにされた。バルティマイと名前が残っているのは、彼が初代教会で名を知られた信徒になったからだと思われる。クレネ人シモンと同じだ。
―マルコ 15:21「 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
―ローマ 16:13「主に結ばれている、選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」
・バルティマイは盲人だった。彼は盲ゆえにイエスを求め、イエスの十字架の証人となった。聖書はそれぞれの人が役割を持って、栄光をあらわすために生きることを告げる。
―ヨハネ 9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」